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言葉を尽くして三味線の価値を伝えたい。三味線奏者 / 田村 花枝

三味線奏者 田村花織

三味線奏者として活動の幅を広げている田村花枝さん。両親の影響で14歳から始めた三味線。伝統芸能の世界のジレンマや自分の方向性について悩まれた時期もあったそうです。三味線奏者という肩書きを持ちながら「世界青年の船」やアメリカの「ディズニーワールド」で働いた経験を通して、自分にしかない価値を見出してきました。どういった経緯で今に至るのか、その背景に迫りました。

両親の影響で伝統芸能の世界へ

三味線奏者 田村花織

私は5歳から日本舞踊と茶道を習っていました。我が家は男・男・女の三兄弟なので、待望の女の子が生まれたので、両親は習い事を何かさせたかったんでしょうね。

私が生まれたのは1986年。英語教育が流行りだしてきたころで「これからはグローバル化の時代!」といわれ、小さい頃から「英語をさせるのがステータス」のような風潮もあったそうです。
ですが、両親はグローバル化するからといって英語を選びませんでした。

「英語以前に日本の文化をちゃんと身に着けて発信する力がなかったら、英語をしゃべれても意味がない」だからこそ「何か日本的な習い事をさせよう!」と思ったそうです。
ちょうど実家の近くに日本舞踊の良い先生もいらっしゃったこともあって、5歳の時に日本舞踊と茶道を習い始めました。

両親いわく、「立ち振る舞いは一朝一夕では身につかない。大事なのは日々の積み重ねで、半年や数年習いに行って身に付くものではない。小さい頃から目に見えた成果がなくても必ず身に付くはず!と思って、習いに行かせた」とのこと。

そのまま茶道と日本舞踊は小、中学校と続けました。日本舞踊の先生も茶道の先生もとても気の長い先生で、私がどんなにサボったり、どんなにできなくてもずっと見ててくれました。そういった理由もあって、最終的には高校卒業まで続けることができました。

三味線との出会いは中学1年のとき。母親が高新文化教室で三味線教室を見つけ、家で練習していました。それを見て私も「オモシロそう!」と思い、中学2年(14歳)になった年に三味線を習いはじめました。

三味線奏者として弟子入り

三味線奏者 田村花織

高校入学して1年のときには進路の話が出てきまして、私も進路をどうしようか悩んでいました。

そのとき、三味線の先生に「そろそろ進学や就職の話を言われるんですけど、私は三味線を続けたい。どうしたらいいんでしょう?」と相談しました。
三味線の先生は「では、大阪に良い先生がいらっしゃるから紹介してあげます。そこへ弟子入りをしたらどうですか?」と仰いました。
…「弟子入り!?なんてカッコイイ響きなんだ!」これしかないと思いました(笑)

二つ返事で「はい!それでお願いします!」と言ってしまいました。そうなると…ビックリするのは高校の進路指導の先生です。
「えっ?弟子入り?ナニそれ?Pardon??」と、とにかく驚いていらっしゃいました。無理もない話だと思います(笑)

「弟子入りはちょっと辞めたほうがいいんじゃないか?何の資格もないし職業を斡旋してくれるわけでもないし、リスクがあり過ぎないか?」と進路指導の先生は心配されていました。

ですが今さら大学のために勉強して適当な学歴をつけるよりも、自分の好きなことで力を伸ばしていったほうが良いんじゃないのだろうか…? まだまだ人生経験の浅い高校生ですがそのように思いましたので、卒業後に大阪の先生のところへ弟子入りしました。
高知を離れることになりましたので、卒業のタイミングで日本舞踊と茶道はやめてしまいました。

卒業後は3年半ほど大阪の先生にお世話になって、ずっと三味線の勉強をし続けていました。
19歳でプロになり、常磐津節で芸名を頂きました。それから21歳まで大阪に住んでいました。

三味線から逃げたくなって家出を決意

三味線奏者 田村花織

三味線のプロにはなったけれど、まだまだ勉強中。稽古の日々でした。

ですが、21歳のとき、自分の中で三味線が嫌になってきていました。
上下関係や礼儀作法が厳しい世界だというのは承知の上での弟子入りでしたが、やっぱりそれでもツライと思うことが多くありました。

それと、三味線に限らず伝統芸能の世界が仕事が少なくなっている姿も目の当たりにして、「三味線の業界の未来はあんまり明るくないな…」とそのときに分かりました。
若気の至りだとは思いますが、その時は伝統芸能の世界にちょっと失望していました。

「あれ?これってひょっとしたら50年後くらいには無くなっている仕事なんじゃないの?」とさえ思いました

それに三味線が嫌になっていたというタイミングがガッチリ重なってしまって…「この世界は嫌だ。逃げたいな…。」そう思いました

先輩にも相談に乗っていただきましたが、ほとんど一人で悩んでいました。「自分は今の状況に対して何もできない。でもどうにかこの状況から逃げ出したい」と思い、本当に逃げてしまいました!

私は一人でタイに行きました。誰にも何も言わずに。貯めたバイト代で航空券を買って、宿は安いゲストハウスを予約。そして出発の日、私は空港で手紙を書きました。
「旅に出ます。さよなら。探さないでください。」と2通書いて、両親と大阪でお世話になっていた先生宛に、関西国際空港のポストに投函しました。

三味線の世界へもう一度。

三味線奏者 田村花織

1ヶ月くらいタイで放浪しました。夢にまで先生や先輩が出てきました。いろいろな出会いを経て、無事に帰国。
両親と先生には…本当に、本当に心配をかけました。日本に帰ってきても、大阪の先生のところへはどうしても戻れませんでした。とても情けない話ですが、そのことがきっかけで高知に帰ってきました。

その後、半年くらいは三味線からは遠ざかり、臨時の事務の仕事をしていました。その折に「料亭 濱長」が再オープンするという話を、高知の三味線の先生から聞きました。
当時の濱長の女将さんと、高知でお世話になっていた三味線の先生は、非常に親しい間柄です。

そこで先生から「三味線を弾ける人は少ないし、弾けるまでに時間がかかる。ちょっと三味線で手伝いに行ってあげたらどう?」と言ってくださいました。
私も「少しでも役に立つなら、手伝いに行きます」と応えました。それがきっかけで三味線の世界に戻りまして。
そのとき、21歳の終わりぐらいだったと思います。

そのまま料亭濱長で三味線を弾く「地方(じかた)」という仕事を続けました。22歳になり、三味線の小唄の師範となったことがきっかけで、いの町の文化教室で三味線教室を教えることになりました。

見識を広めるため「世界青年の船」に乗船

三味線奏者 田村花織

22~25歳までは 濱長の仕事もしながら、三味線教室をやっていました。ワークショップを開いたり、地元の小学校や高校にも教えに行きました。そんながむしゃらに三味線に打ち込んでいる時に見つけたのが内閣府主催の青年国際交流事業の「世界青年の船でした。

それは日本を代表する国際交流事業で、1ヶ月ほど船に乗って、日本人や海外の青年と一緒に船の中で共同生活しながら国際交流や文化交流をするものでした。寄港地であるインドとスリランカを目指し、寄港地でも現地の青年と交流したり教育機関への訪問なども行う…という事業でしたが、それに行って「三味線を、そして自分の見識を広めたい!」と応募しました。

高知県の選抜と東京の選抜もありましたが、無事に合格。日本、いえ、高知代表として「世界青年の船」に参加することができました。この事業の中で世界の青年たちと交流したり、三味線を教えたり、三味線を聞いてもらったりしました。そんな活動の中で感じたことがあります。

これまで私は勉強もしてこなかったし、高学歴でもないし、社会人経験もほぼ無い。
けれども、三味線が弾けるというのは世界を渡り歩く武器の一つとして役に立っている。
ということです。

三味線の師匠、アメリカのディズニーで働く

海外経験では、もう一つの大きな挑戦無くしては今の私はあり得なかったと思います。
それは、アメリカのディズニーワールドで働いた一年でした。

28歳のときに「30歳になる前に海外にもう一度行けないだろうか…。」と思っていました。
そんなとき、家族旅行で訪れたアメリカ・フロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドにチャンスがありました。

そこでは日本の疑似体験ができるエリアがあり、働いている人は全て日本人。海外のディズニーで日本人が働いていることを知って「ここで働きたい!」と思いました。

そこで働けるプログラムは、米国三越が募集している「CRプログラム」というものでした。
「20代を海外で働けるのは…今だ!」と思いましたし、「ディズニーで働いた経験を持つ三味線演奏、指導者はあまりいないのでは?!この経験と肩書きは、きっとこれからの三味線の普及活動に役に立つに違いない!!」と、すぐに応募を決めました。

2015年の3月に渡米し、そこから1年間アメリカのディズニーで寿司職人として働きました。
その間に現地で住んでいる日本人に三味線を教えたり、ディズニーのタレントコンペティションで三味線を演奏したり、ディズニー社のイベントで三味線を弾かせてもらったり…。三味線があったからこそ貴重な経験をさせて頂けました。
そこで働いている同期たちも自分の知らない世界の方々ばかり。その過程でも「三味線の経験が自分にとっての武器になってくれている」と改めて感じました。

日本帰国後はクルーズ船の入港の際の歓迎演奏や、よさこい祭りでの三味線演奏。そして、小学校や高校への三味線書道や、もちろん個人でも三味線教室をしています。

三味線に興味があり、少しでも「三味線を始めたい!」という気持ちを、後押しさせて頂いています。

三味線を通して伝えたいこと

三味線奏者 田村花織

20代の中盤までは「三味線の何に価値があるんだろう?」とずっと思っていました。
三味線を教えたり演奏して喜んでくれる人はいます。それでも「誰かに言われたからやっている」という気持ちでいました。20代のほとんどは自分と三味線との葛藤で、常に受け身な状態で三味線と対峙していたように思います。

ですが、世界青年の船やアメリカに行こうと決めたときは「受け身じゃなくて、自分から三味線の価値を見つけて踏み込んでいこう!お客さんに理解してもらうにはどうしたらいいだろう?」と考えるようになりました。お客さんに三味線の価値を分かってもらった上で弾いたときは、達成感がありました。

演奏を見て聞くだけではなくて「見て聞いて、分かってもらう」こと。このことが大事だなと思いました。
自分が三味線のことをちょっと理解したら「今日ちょっと自分賢くなったな」と思ってお土産ができる。私は見に来てくれた人にお土産を持って帰ってもらいたい

「今から演奏します。はい、演奏して終わり!」というのでは、お客さんはポカーンとしてしまいます。三味線の何がスゴイのか、どこが聴きどころなのか、きちんと伝えないとお客さんは全然分からないかもしれません。

だからこそ、説明できるようになろうと思いました。「三味線の成り立ちは?」「三味線のユニークなところは?」「演奏している民謡の背景は?」と色んな目線で考えました。自分の心を小学生くらいに引き戻して、「これはなぜ?これはどうして?」というのを自分に疑問を作り、分からないところは調べて分かりやすい言葉で言語化していくようにしました。

三味線が日常の音として聞かなくなってから、何十年も経っているのです。
「聞けばわかるでしょ!」という感覚は捨てて、まっさらの状態の人には、とにかく言葉を尽くさないといけない。言葉を尽くして伝えていく中で価値を感じてもらう。…ということを大事にしています。

海外への可能性を示していきたい

田村花枝

今年はドイツのハンブルクで演奏する機会を頂き、在ハンブルク日本総領事館のご依頼で演奏もさせていただきました。
来年はフランス・パリの「JAPAN EXPO」への出演も考えています。

ハンブルクの日本庭園(Planten Un Blomen)にて演奏。

ゆくゆくは海外へ演奏しに行けるルートをたくさん作りたい
それは自分のためも勿論ありますが、これから始める若い方へ、三味線という武器を片手に海外に出て行けるようにしたい。
「三味線ができたから、海外へ行くチャンスがつかめた」というきっかけの一つとして。
語学も出来ればもちろん鬼に金棒ですが、語学だけが海外へ出るための最重要必須事項ではないということを伝えたい。

自分の武器が何か一つあったら、海外に出て行ける可能性も十分にあるということを示していきたいです。

◆個人サイトはこちら

ドイツ・ハンブルクの街中で。

編集後記

花枝さんの思い出深い場所ということで桂浜で取材撮影させてもらいました。初めてお会いしましたが、とても活発でハツラツとした笑顔が印象的。自分の信念を曲げない強い意志も感じました。

取材中、「演奏技術で、自分の努力を軽く乗り越えていく人はいる。けれど、追い抜いて行く演奏家には演奏家技術を一心に追い求めるルートを走らせればいい」という話がありました。
花織さんは、そのルートとは別に「絵を描ける、文章が書ける、人前で話すのも嫌じゃない」という特技に気づき、三味線を演奏じゃない形(コラム・ブログ・イラスト)で発信されています。

また今は、三味線というものに色んなタグをつけていているそう。例えば、コラム・イラスト・ディズニー・海外・文化交流。
三味線、演奏。だけだと琴線に触れる人は少ない。ところが、三味線という大きなタグに「国際交流」というタグに興味を持ってくれている人が三味線を知ってもらうきっかけになるかもしれない訳です。そのために、色んなところにボールを投げれるよう様々な経験を積まれています。

「色んなことができる」「何かをやるのに躊躇しない」というのも才能の一つと捉え、挑戦している彼女の姿勢に刺激を受けました。

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