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舞台プロデューサー 斎藤 努|高知から舞台芸術の最先端へ

舞台芸術の業界で世界を股にかけ、精力的に活動する舞台プロデューサーの斎藤努さん。元々、演劇に興味があったわけではなく、人との巡り合わせから演劇の業界へ飛び込んだそうです。どのような背景で今があるのか、今後の活動も含めてお話を伺いました。
 
【舞台プロデューサー】斎藤努

巡り合わせから舞台演劇の道へ

実家は土佐市新居でカンパチなどの養殖業を営み、四つ上の兄と六つ下の妹の間で伸び伸び育てられました。小さい頃からの夢は「海外放浪」。小学校は柔道、中学校は野球、高校はバレーボールと完全な体育会系の道を歩み、土佐高卒業後に、「手に職があれば海外放浪できるがやない?」という思いで大阪府立大学農学部獣医学科へ進学しました。

初めての演劇体験は、高校時代に付き合った彼女が演劇部だったので高校演劇コンクールを見たことです。その時出演してた後輩の男の子が、普段は根暗で大人しい感じだったのに舞台ではめっちゃはっちゃけていた。その姿を見て、「僕も一回くらい役者として舞台に立ってみたいな」という想いが芽生えました。

そんな経緯とお酒好きの先輩が多かったことから大学の演劇部に入り、舞台芸術に関わるようになりました。

 

役者からプロデューサー業へ転身

学生劇団で活動を始めたこともあり「やるんやったら本気でやろう」とプロの劇団を観に行きました。
今でもトップアーティストとして活躍されている野田秀樹さんの作品「RightEye」に感銘を受けました。出演者は3人だけ、舞台上にはほとんど何もない、それでも役者と観客の想像力を信じて創作している演出が面白く、「こんな何もない舞台で、こんな感動するものが見れるのか!」と。

「RightEye」のような舞台が創れるのなら真剣にやってみたいという想いから、学生劇団だけではなく、アマチュアやプロの方々と創作を始めることに。役者や照明、音響、舞台美術など、皆で創る総合芸術の舞台は「よさこい」と似ているなと感じました。

大学在学中の2000年からプロの演劇ユニット「アフロ13」に所属し、役者として活動をしてました。アフロ13は「劇団☆新感線」の若手メンバーなどを中心に構成され、ダンスや音楽など言葉に頼らない創作で海外進出を狙っていました。

2002年にアフロ13で台湾公演を行った時に初めてプロデューサーを担当。表方ではなく、裏方として創作に関わり、「おもしろい創作に関われるなら役者でなくてもいいや」という考えになりました。プロデューサーの仕事は色々と大変ではあるけれど、達成感は役者以上のものがあったので。

 

演劇の道へ振り切る

台湾公演後、役者の活動を辞めて、プロデューサーに専念することにしました。大学で勉強しているうちに獣医として海外放浪することは難しいという実感もあり、舞台のほうがアメリカツアーやヨーロッパツアーを行なったりしてたので、「舞台の仕事をしたほうが海外放浪に近いことができる?」という安易な思いもあり、獣医ではなく、舞台の仕事に振り切ろうと考えました。当時22歳。

2004年にはスコットランドで行われる世界三大演劇祭の1つであるエディンバラ・フェスティバルへの出演が決まりました。前年に自費でスコットランドに行き、出会った日本の劇団関係者に橋渡しを頼み、現地のプロデューサーに資料を提出したことが実を結びました。

獣医師の国家試験は受けましたが、見事に落ちる。卒業後は大阪で、プロデューサーの仕事を続けることに。

その後、自分でプロデュースした台湾との国際共同制作で百万円弱の赤字を作ってしまいました。当時26歳で、その日暮らしの生活。改めてプロデュース業を考えなければならない。そう思っていた矢先に、転機となる出逢いがありました。

 

転機となった最前線での舞台制作

2009年、劇団や俳優のマネジメント、舞台制作を手掛ける会社「ゴーチ・ブラザーズ」(東京)に声をかけられたのです。ゴーチ・ブラザーズは様々な舞台の仕事があり、所属した1年目は日本を代表する演出家、蜷川幸雄さんの現場にて制作助手などを経験しました。ケータリングや雑務等をこなしながら、最前線の舞台に関われた経験は大きかったです。
日本最高峰のキャスト、スタッフに関われたことで、関西でこれまでやってきた創作のイメージが大幅に変わりました。予算規模もこれまで関わってきた創作の数十倍。個人では決して学ぶことのできない貴重な経験をすることができました。

これまで関わってきた創作は、潤沢な資金もないので無料で使える公民館などを転々としながら稽古をし、本番一週間前に音響や舞台美術を作り、なるべく本番通りのリハーサルを行ない、劇場に入って最終調整をし、本番を迎える、という
感じでした。が、蜷川さんの創作現場は、稽古初日から本番と同じような音響、舞台美術で、1ヶ月同じ場所で稽古ができ、劇場に入ってから1ヶ月もの長期間本番をする、というものでした。

本番を行なった「シアターコクーン」は客席が800席くらいの大劇場なので、その大きさと同じ稽古場を借り、キャストは本番とほぼ同じ舞台美術で1ヶ月稽古ができる。舞台裏のスタッフや小道具、衣裳など、すべてが稽古場に揃っている。そうする事でより完成度の高い作品が出来上がるのです。自分も日本最高峰の創作をしたいと考えると、「ここを目指さないといけない」と思いました。勝負するにも「スタート地点から全く違う」という現実を知りました。

※蜷川幸雄(にながわ ゆきお):日本の演出家、映画監督、俳優。桐朋学園芸術短期大学名誉教授。83年の『王女メディア』ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外公演を行い、その活動は広く海外でも注目され高い評価を得ている。 88年『近松心中物語』の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。 (Wikipedia参照)

 
 

小劇場界の風雲児との出逢い

翌年の2010年、劇団「柿喰う客」の制作を任されました。演出は「小劇場界の風雲児」と呼ばれていた中屋敷法仁さんでした。独特の世界観を持った創作や、古典戯曲の大胆な解釈などで注目されていた中屋敷さんと対等に議論できるように舞台について勉強し直しました。予算が少ないときは音響、照明なしで臨むなど、中屋敷さんの柔軟な姿勢から学ぶことも多かったように思います。

中屋敷さんと共に様々な創作を行ない、東京での経験だけでなく、海外公演や地域での創作など今まで以上に豊かな経験をする事ができました。最高峰の蜷川さんの創作に触れたこともあり、若手の中屋敷さんと「いつかはシアターコクーンのような大劇場で上演したい!」ということを考えることができました。

11~12年には女優だけでシェイクスピア作品を上演する公演が反響を呼び、大阪、愛知など4都市ツアーを達成することができました。その後、夢だったパルコ劇場、本多劇場にも進出し、100人規模の劇場でやってきた劇団が短期間で400人規模の劇場で公演するまでになり、達成感もひとしおでした。

※中屋敷 法仁(なかやしき のりひと):高校3年時に『贋作マクベス』にて、第49回全国高等学校演劇大会・最優秀創作脚本賞受賞。青山学院大学在学中(2年)に「柿喰う客」を旗揚げし、全作品の演出・構成を手がける。舞台装置には極力頼らず、その分役者を引き立たせる衣裳、照明、音楽には強いこだわりを見せ、総じて”スタイリッシュ”と評せられる。(Wikipedia参照)

 
 

「地域でもできる」と証明したい

もともと「いずれは高知に帰りたい」と考えていました。ですが、2011年に家業を継いでいた兄が三十代半ばで心臓発作で急逝したことが決断を早めました。仕事が一段落した2014年末に独立し、2015年夏に拠点を高知へ移しました。今は時間のある時は家業を手伝いつつ、東京などでプロデュース業務をこなすほか、岡山や大阪にて舞台制作講座などを行なっています。まだまだ安定しているとは言い難いですが、今後は地域でもこういう仕事ができると証明したいです。

「バックグランドの違う人と繋がったり、一緒に仕事をしたい」という気持ちがどこかにあると思います。なので海外の方々と国際共同制作をすることは楽しいです。またフリーランスのプロデューサーとして思うのは「どこにいても働けるようになれば、こんなに楽しい生き方はない!」ということ。
そうなれたら地元の高知にいても問題ないかな、ということもあり、拠点を移しました。

これからも場所や時間に縛られない生き方を目指したいと思っています。
楽しい生き方を自分を使って提案していきたいです。

どういうジャンルであれ、地域にいながら業界の最先端に関わっていける。
高知もそんな環境に変えていきたいと思っています。

 


斎藤 努
1979年高知県生まれ
Producer・Researcher・Spacetrip代表

学生時代から舞台制作に携わり、様々な劇団、ユニット、ダンスカンパニーなどの制作を行なう。国内公演はもちろん、海外公演(イギリス、フランス、トルコ、台湾など)、国際共同制作、国際アートフェスティバル(イギリス、ルーマニア、オーストラリアなど)への参加なども積極的に行ない、「大阪・アジアアートフェスティバル」Director、「Osaka Short Play Festival」実行委員、精華小劇場事務局スタッフなどを経て、09年4月より有限会社ゴーチ・ブラザーズ に所属し、国際事業準備室を立ち上げる。

主に劇団「柿喰う客」の制作、中屋敷法仁(演出家、劇作家)のマネジメントを担当する。13年6月よりアーツカウンシル東京にてResearcherを務める。15年4月から約2ヶ月間、国際交流基金アジアセンター アジア・フェローシップ・プログラムにてインドネシアの舞台芸術について調査・研究を行なう。15年7月より故郷の高知にUターンし、高知を拠点に様々なアートプログラムに関わっている。

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