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言葉を尽くして三味線の価値を伝えたい【三味線奏者 / 田村 花枝】

三味線奏者 田村花織三味線の世界へもう一度。

1ヶ月くらいタイで放浪しました。夢にまで先生や先輩が出てきました。いろいろな出会いを経て、無事に帰国。
両親と先生には…本当に、本当に心配をかけました。日本に帰ってきても、大阪の先生のところへはどうしても戻れませんでした。とても情けない話ですが、そのことがきっかけで高知に帰ってきました。

その後、半年くらいは三味線からは遠ざかり、臨時の事務の仕事をしていました。その折に「料亭 濱長」が再オープンするという話を、高知の三味線の先生から聞きました。
当時の濱長の女将さんと、高知でお世話になっていた三味線の先生は、非常に親しい間柄です。

そこで先生から「三味線を弾ける人は少ないし、弾けるまでに時間がかかる。ちょっと三味線で手伝いに行ってあげたらどう?」と言ってくださいました。
私も「少しでも役に立つなら、手伝いに行きます」と応えました。それがきっかけで三味線の世界に戻りまして。
そのとき、21歳の終わりぐらいだったと思います。

そのまま料亭濱長で三味線を弾く「地方(じかた)」という仕事を続けました。22歳になり、三味線の小唄の師範となったことがきっかけで、いの町の文化教室で三味線教室を教えることになりました。

三味線奏者 田村花織見識を広めるため「世界青年の船」に乗船

22~25歳までは 濱長の仕事もしながら、三味線教室をやっていました。ワークショップを開いたり、地元の小学校や高校にも教えに行きました。そんながむしゃらに三味線に打ち込んでいる時に見つけたのが内閣府主催の青年国際交流事業の「世界青年の船でした。

それは日本を代表する国際交流事業で、1ヶ月ほど船に乗って、日本人や海外の青年と一緒に船の中で共同生活しながら国際交流や文化交流をするものでした。寄港地であるインドとスリランカを目指し、寄港地でも現地の青年と交流したり教育機関への訪問なども行う…という事業でしたが、それに行って「三味線を、そして自分の見識を広めたい!」と応募しました。

高知県の選抜と東京の選抜もありましたが、無事に合格。日本、いえ、高知代表として「世界青年の船」に参加することができました。この事業の中で世界の青年たちと交流したり、三味線を教えたり、三味線を聞いてもらったりしました。そんな活動の中で感じたことがあります。

これまで私は勉強もしてこなかったし、高学歴でもないし、社会人経験もほぼ無い。
けれども、三味線が弾けるというのは世界を渡り歩く武器の一つとして役に立っている。
ということです。

三味線の師匠、アメリカのディズニーで働く

海外経験では、もう一つの大きな挑戦無くしては今の私はあり得なかったと思います。
それは、アメリカのディズニーワールドで働いた一年でした。

28歳のときに「30歳になる前に海外にもう一度行けないだろうか…。」と思っていました。
そんなとき、家族旅行で訪れたアメリカ・フロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドにチャンスがありました。

そこでは日本の疑似体験ができるエリアがあり、働いている人は全て日本人。海外のディズニーで日本人が働いていることを知って「ここで働きたい!」と思いました。

そこで働けるプログラムは、米国三越が募集している「CRプログラム」というものでした。
「20代を海外で働けるのは…今だ!」と思いましたし、「ディズニーで働いた経験を持つ三味線演奏、指導者はあまりいないのでは?!この経験と肩書きは、きっとこれからの三味線の普及活動に役に立つに違いない!!」と、すぐに応募を決めました。

2015年の3月に渡米し、そこから1年間アメリカのディズニーで寿司職人として働きました。
その間に現地で住んでいる日本人に三味線を教えたり、ディズニーのタレントコンペティションで三味線を演奏したり、ディズニー社のイベントで三味線を弾かせてもらったり…。三味線があったからこそ貴重な経験をさせて頂けました。
そこで働いている同期たちも自分の知らない世界の方々ばかり。その過程でも「三味線の経験が自分にとっての武器になってくれている」と改めて感じました。

日本帰国後はクルーズ船の入港の際の歓迎演奏や、よさこい祭りでの三味線演奏。そして、小学校や高校への三味線書道や、もちろん個人でも三味線教室をしています。

三味線に興味があり、少しでも「三味線を始めたい!」という気持ちを、後押しさせて頂いています。

 

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