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【建匠社長 / 西村 龍雄】想いを重ねて実力を積み上げる

高知県の住宅業界で圧倒的な成長スピードで事業展開している株式会社建匠社長の西村龍雄さん。もともとは勉強も運動も苦手だった。そんな西村さんが、なぜ建築業界で初年度一人あたりの年間売上高、日本一の業績(4億6千万)を叩き出せるまでになったのか。その背景に迫りました。

【株式会社 建匠】西村 龍雄8歳から、ブレずに大工一筋

小さい頃は、とにかく勉強ができませんでした。両親に「コイツは普通に高校、大学に行って良い会社に入るという道は無理だ」と小学校の低学年のときに思われるくらい(笑)
内気な性格でガンダムのプラモデルが好きで、めちゃくちゃ作っていたんです。それを両親が見て「コイツは手先は器用やな、職人の道しかないかもしれん」(笑)そんな雰囲気でした。

両親が実家を建てたのが小学校2年生くらい、そのときに大工さんの手伝いをしたんです。子供なので出来ることは知れてますけど、現場が楽しかった。
当時8歳で「大工さんになりたい」と言い出し、ブレずに30数年ずっと大工一筋。ばあちゃんのお友達が棟梁で、かわいがってくれた影響もありますね。

高校は建築科のある学校に入りたいと「高知工業高校」を希望するのですが、頭が悪すぎると入れないんですね。
中学校2年頃に「無理だ、やめとけ、絶対受からんぞ」と先生に言われて。「なんてヒドイことを言う先生だ!」と思いましたね(笑)


結局「須崎工業」に入学。須崎工業には建築科がなく、機械科に入りました。10歳の頃から空手をやっていて、須崎工業が空手に力を入れていたおかげで入学できた感じです。
たまたま高校の先生がいる試合で必殺の回し蹴りが炸裂して(笑)「こいつはスゴいぞ!」となったけど、実は弱かった(笑)

高校では3年間、学力テストで学年最下位。「下から帝王」です。抜かれてません(笑)
でも工業系の8科目は、すべて「評価:5」。5教科と比べると工業科目の方が比率が大きい。そうすると良いあんばいになるわけです。

 

【株式会社 建匠】西村 龍雄一生勤める予定の会社をリストラ

卒業後は、大工さんの学校で1年間基礎を学びました。そこから高知市内にある日本建築、神社、お寺、技術系の工務店に就職して大工をしていました。
その当時は職人で一生勤めあげるつもりで、「会社を起こす」なんて思ったことがありませんでした。

ところが、リストラされるんですね。長年勤めた会社を。当時28歳でした。入社した当初は仕事もありましたが、最後の1ヶ月は仕事がなくて倉庫の掃除しかすることなくて、社長に「もう無理だ」と言われて。「そりゃそうだよね」と(笑)

それを朝8時に言われたので、お昼に「起業するのか」「どこかの会社に入るか」いろいろと考えていて、その日の夕方に「旅に出よう」と決めました。

大工の技術者としては、評価は高かった。技能五輪という職人さんの全国大会「建築大工」の部で高知県代表で出場して、予選を一番先に突破しました。
県内外から声をかけていただいたんですけれど、就職せず。

【株式会社 建匠】モデルハウス事例箱バンで日本をぐるっと2周

旅は、日本をぐるっと2周(沖縄以外)しました。
よく職人さんが乗っている軽自動車の箱バンがあって、あれに半年住んでいました。

リストラされましたが、そもそも大工さんを一生続けていくことは無理だったんです。18歳のときに背骨を割って、大工を一生やるのは無理と言われていました。騙し騙しやっていたけれども、大工も空手も体を使うので無理をせずにやれる仕事じゃない。それで「無理やな」と。残った選択肢で「自分で会社を起こすしかない」という考えに至りました。

「やるしかない!」と決めたのですが、踏ん切りもきかなかったから、日本を一周したのかもしれないですね。

旅の中で「自分に何ができるのか?」「本当にやれるのか?」「そもそもどうやって仕事を確保するのか?」と考えながら旅をして、思考が磨かれていきました。
旅をする前は、人生のドン底やったんですね。仕事がなくなり、彼女にもフラれ、空手もダンスもできないという状態。
あのとき一番キツかったのは、空手ができなくなったこと。そこでしか出せない自分がいたので…。

仕事以外、空手一筋。ずっとトレーニングしてきたものが、無くなる。友達からの遊びの誘いもトレーニングのオフ日以外、全部断るくらいでした。職人としてもガッツリ集中タイプ。集中したときは、3日くらい飲まず食わずになることもあります(笑)

 

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