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ひょうたんマジック 小泉 斉|ひょうたんに魔法をかけるマジシャン

ひょうたんマジック

東京都は葛飾区で生まれ育ち、四万十でひょうたんランプを製作している「ひょうたんマジック」の小泉 斉(こいずみ ひとし) さん。初めて彼のひょうたんを見た時、「これがひょうたん!?」と芸術レベルのクオリティに感嘆したのを覚えています。

四万十に移住後、ひょうたんを栽培から手がけています。ひょうたんにかける想いを伺いました。

ひょうたんマジック

ひょうたんとの出逢い。

友達の知り合いで静岡の山奥でハンディークラフトで暮らしている人がいるということを知り、会いに行った。そこでランプではなくスピーカーに出逢った。そこに飾ってあった「ひょうたんスピーカー」で曲を鳴らして。形もさることながら音に感動して。スピーカーの音が気持ちよかった。当時は24歳頃。日本大学の学生だった。
学生の時に旅行した先、ヒマラヤの麓にあるネパール王国が気に入っちゃって、こっちに来るきっかけが欲しくてスポンサーとして現地のオーナーとゲストハウス経営を始めて。
ゲストハウスを始めてたのと同時期に、神奈川県の川崎市の駅前で兄貴がカフェを立ち上げてた。兄貴が社長で、俺がカフェの店長を務めつつ、ひょうたんを使ったランプ、スピーカーの製作を始めるようになった。味のある店にしたいから、手作りの物もちょこちょこ増やしていったような形。
ディスプレイとして使ううちに、欲しいという声をもらうようになった。「これはもしかして、ちょっとした小遣いになるかな」と思って、だんだん欲が出てきたというか。追求していくようになっていったんだよね。
そこから色気が出てきて、ガラスを入れたりだとか。独学で始めた。
ひょうたんマジック

最初の独立は失敗、実家の町工場へ。

お店に没頭して、売上を上げることを考えて暮らしてた。その後、立ち上げから10年が経った。区切りということで自分は辞めることに決めたんだよね。店は今でも営業してて、もう20年以上やってる。
そのときも「ひょうたんランプ」を作ってた。「ひょうたん」にチャレンジしたいということで店を辞めたんだよね。
それが最初。辞めたんだけど、スキルも全然ないしクオリティも低いし、やってはみたものの現実にブチ当たった。結局ひょうたんランプの最初のフリーランスとしてのステージはすぐに辞めて、日雇いの土方をやりながら。それでも一応バイトをしながら続けていたんだよね。
そんな生活を1年くらい過ごした頃、実家で親父や弟と町工場を経営していたお袋が倒れちゃって。家業を手伝うことになって実家に住み込んで手伝うことになった。
実家は東京都の葛飾区。兄弟は3人兄弟。長男はカフェ経営。次男である俺は定まらない生活をしてて、ある日見かねた弟が家業を継ぐって決めていた。そんな状態の会社に俺がポコンと現れて、仕事しながら、親父の身の回りのことをやっていたんだけれどさ。お袋の病気は腎臓だったんだけれど、腎臓移植をして奇跡的に普通の生活に戻ったんだよね。お袋が帰ってきたからあまりいる意味がないと感じていて。10年20年先の自分の人生を考えたときに独立した方がいいと考えるようになってた。
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人生観を変える大震災 3.11。

家業で働いて5年目になった時、東日本の大震災が来たんだよね。3.11に地震が来て、幸いにもうちの工場は無傷だったんだけれど、なんかモヤモヤする自分がその日を機会に形成されてきて。車で1時間行ったところでは大変なことになっているのに、東京は3日も経たないうちに電車も回復して、普通の生活に戻ってる。放射能は舞っているし、状況もイマイチ把握できずに、グレーゾーンの中で食べているものも大丈夫なのかわからず、とにかくモヤモヤしてたんだよね。
普通の生活をしながら2ヶ月くらい経った時、1回見に行ってみようって。地震の報道はまだ続いていたけれど、百聞は一見にしかずで。
現場は今どんな状態なのかなって、興味本位で見に行きたいって気持ちでボランティアに参加したんだよね。
宮城県の石巻に単身で行って、一週間くらい瓦礫の撤去とかボランティアでやって、現場の凄さにとにかく驚いた。形あるものいずれ壊れるじゃないけれど、諸行無常の世界を体感してさ。自分の人生に照らし合わせた時に、これから東京で生活を続けていくことにイマイチ疑問を感じちゃって。ちょうどその時、40歳だったのね。40の区切りで人生を、夢を追いかけたいと。そんな気持ちがフツフツと湧いてきてさ。

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