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人とつながり、自由に表現する。ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

ノマドスタイルアーティストとして世界を飛び回っているニキ・ローレケ(Niky Roehreke)。ニューヨークを拠点に活動後、世界中を旅した末に高知に移住。高知に移住するきっかけや、アーティストとしての生き様に迫りました。

日本にいながら、
ドイツ漬けの学校生活。

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

父親がドイツ人、母親が日本人の東京生まれ。子どもの頃は、とてもシャイで言いたいことが言いにくい子どもでした。言葉で伝えることが苦手だったから、絵を描いていました。

しゃべることが苦手だったからバレエやダンスを習っていて、他にも別の表現方法に無意識に興味があったんだと思います。ひたすら絵を描いていたけれど、絵を描くことを仕事にできると思っていなくて。ただ単に、好きだから描いている感じでした。

幼稚園から高校まで、横浜にあるドイツ学校に通っていて、門を通ると日本語禁止、日常会話から図書室の本まで完全ドイツ語の環境でした。
ドイツ学校は自分が思っていることを伝えることを大事にしていて、教室でも先生に自発的に質問したり伝えることが成績にも影響するような学校でした。もちろん友達もドイツ人やハーフの子たちで、放課後もドイツの学校の友達と遊んだり。

高校になって遊ぶときも外人が行くバーに行ったりと変な環境で生まれ育ったので、高校卒業して、はじめて「やったー!日本に住める!」と思って(笑)
日本人の友達ができたのも、卒業後アルバイトを始めてからでした。日本を知りたいと思い、1年くらい沖縄、関西と旅行していました。

名門ロンドン芸術大学へ。

via:www.nikyniky.com

via:www.nikyniky.com(Tote bag illustration for Billy’s Boutique in California)

当時は、ファッションがすごくい好きで、ファッションデザイナーになりたいと考えていました。
「アレキサンダー・マックイーン」や「ステラ・マッカートニー」等、憧れている人たちが、名門のロンドン芸術大学「セントラルセントマーティン(以下CSM)」を出ていて。

私も入りたいと思ったのですが、難関の大学。けれど、日本で年に一度CSMのイベントがあり、その場でポートフォリオを見せて、審査が通れば入学できるというものでした。
その頃書いていた絵やデザインのスケッチブックを見せると、「ムリムリムリ!これでうちの学校に入ろうと思ってるの?(笑)」と軽くあしらわれてしまって。「本当に受かりたいなら、もっとちゃんと作らなきゃダメだよ」と…。

すごく腹が立って、「絶対にすごいポートフォリオを作って、見返してやる!」と海外芸術大学留学科のある専門学校へ約10ヶ月通い、スキルを身につけました。
専門学校でポートフォリオを作っているときに、「本当にやりたいことは、ファッションじゃないのかな?」と思えてきました。ファッションは、決まった枠の中でクリエイトしていかなければいけない。それはそれで面白いかもしれないけれど、私は自由が好きだから窮屈に感じました。

グラフィックならアートだけで終わらせず、デザインとしてあらゆる分野で活かせると思って、グラフィックに専攻を変えました。
一年後、CSMのグラフィックデザイン(イラストレーション)コースを受験し、無事合格。

CSMの学生は本当に自由で、沢山の刺激をもらいました。グラフィックデザインを専攻しながら、写真や彫刻、アニメーションや映像まで、好き勝手あらゆることにチャレンジしていたんです!

卒業後、
仕事が全くなかった。

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

学校を卒業した瞬間、てっきり簡単に仕事ができるものだと思っていましたが、全く仕事がありませんでした。
イラスト系のエージェンシー(代理店)やアニメーションスタジオに、かなりの数の履歴書を送ったのですが、一切返事が返ってこなくて。「いったい、どうやってイラストの仕事ができるんだろう?」と途方に暮れていました。

本当にやることがなかったので、いったん日本に帰国。アルバイトをしながら、ちょくちょくギャラリーのオープニングイベントやクリエイティブ系のパーティー、クラブにもよく顔を出していました。
出先で業界の人に会えば、イラストを描いていることをひたすら伝えていましたが、それでも仕事がありませんでした。

そんな折に、たまたま母親が「ニューヨークに行くんだけど、ニキも一緒に行く?」と誘われて。当時アメリカには全く興味なかったのですが、一緒に行くことに。
私は、「ただ単に、バケーションとして行くのはもったいない」と思い、アメリカに何かないかと探しました。

無意識的に出てくるものこそ、本物のアート。

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

私の好きなイラストレーターが、ブルックリンに住んでいました。ダメ元で彼のE-mailを探して、「アシスタントは必要ありませんか?」というような旨を送りました。
そしたら、速攻で「ブルックリンに来るなら、ポートフォリオ持っておいでよ」と返事が返ってきたんです! 「やった!はじめて誰かが返事してくれた!」と思って、すぐにブルックリンのスタジオへ行き、ポートフォリオを見せました。

あまり反応が良くなかったのですが、普段持ち歩いていたスケッチブックを見た瞬間に「それ何?見せてよ!」と言われて。プライベートなスケッチブックで気恥ずかしい思いもありましたが、見せた瞬間、「これだよ!! スケッチブック、ポートフォリオよりもいいじゃん! オッケー。いつから始める?」とトントン拍子に決まって。その後3ヶ月アシスタントをやりました。

それまでは、「アートは完璧に描かなきゃいけない」「美しく見えなきゃいけない」「必死に頑張って作らなきゃいけないものだ」と思っていました。

そうではなく、頭で考えたものよりも、自分から無意識的に出てくるモノの方が伝わるというか、さりげなく描いたモノの方がアートと言えるんだな。と考え方が一気に変わりました。

元々、人の意見を気にしちゃう性格。思い返してみれば、ロンドンでもコース毎の先生に気に入られたいから、頑張って作品を作る。という感じだったから、それは違うなって。

さらに自由に、「それでいいんだ」という大きな気づきがありました。

ニューヨークに移住後、
積み重ねが実を結ぶ

via:www.nikyniky.com

via:www.nikyniky.com(Advertising Campaign for Samantha Thavasa October 2013)

2009年にはじめてアメリカに行き、3ヶ月のアシスタントが終わりました。
帰国後、「もう一度ニューヨークに住みたい」と思うようになり、2011年に念願のビザを取得。ニューヨークに移住しました。

その頃から日本の仕事が入るように。仕事がない頃、行く先々で、常に自分の仕事のPRをしていたことが繋がってきたんです。

ニューヨークに住んでからはHPを作り、「何があっても1日1枚の絵を描こう」と決めて、毎日描いたものをスキャンしてHPに載せていました。

毎日描いていると作品が溜まってきて、名刺を渡すと作品を見てもらえるようになりました。最初は出版社から仕事をいただいて、その作品を見てくれた方から依頼が来たり。音楽が好きだったので、クラブで知り合った人から、CDのイラスト依頼も受けるようになりました。

その他にも、手書きイラストを描いたポストカードを出版社や雑誌へ何百枚も送っていました。
ネットでのやり取りが多い中で、手書きのポストカードが送られてくるのが良かったのか、仕事も何件かいただきました。広告媒体から小さな本屋の仕事まで、あらゆる仕事をしました。

地道な積み重ねが身を結んできたような感じ。奇跡はないですね(笑)
積み重ねがあるからこそ、奇跡が起き得る可能性がある。常にやり続けるしかないです。

ニューヨークの体質が
合わなくなり…。

via:www.nikyniky.com(Mural for Hotel Millennials Shibuya)

via:www.nikyniky.com(Mural for Hotel Millennials Shibuya)

ニューヨークで3年目を迎えた頃、仕事も軌道に乗り、エージェンシーが入ってくれることになりました。これまでフリーランスだったので、契約書や金額交渉など、全部やらないといけませんでした。

エージェンシーに入ると全て任せられるので、作品に集中できると思ったのです。
最初は嬉しかったのですが、自分のやりたいことと、「ニューヨーク」という場所が噛み合わないなと感じてきました。

ニューヨークのアーティストであることの楽しさの一部が、「ビジネスで、どれくらいお金を稼ぐことができるか」という考え方の人が多いんです。
私がアシスタントをしていたイラストレーターもバジェット(予算)が低ければ、仕事を受けませんでした。

私はバジェットに影響されず、「描きたい」と思った案件は引き受けます。それが「ニューヨーク」に合っていませんでした。

特にエージェンシーは、アーティストを通して稼がないといけないので、ぎぐしゃくしてしまって。バジェットが低いと仕事をさせてもらえず、逆に「大手の広告をやれ」と。それでやめてしまいました。

もっと本物のことをやりたいと思い、ニューヨークを出ました。

オーカス島で、
カルチャーショックを受ける。

via:www.nikyniky.com(Artwork for Numero TOKYO)

via:www.nikyniky.com(Artwork for Numero TOKYO)

2014年の秋頃、友達から「ワシントン州にあるオーカス島のキャンプツアーに行かない?」と誘われ、アパートを引き払った時期とも重なり、深く考えずに行くことにしました。
東京、ロンドン、ニューヨークと都会大好き人間が、いきなりど田舎の島に行ってしまって。農園でテントを張り、自然の中で過ごすようになりました。

都会にいるとスーパーに行けば、全ての野菜や果実が並んでいます。私はこのコたちが、どのように育って、いつ収穫されているのか全く知りませんでした。農園で野菜を育てたり収穫する体験を通して、自然を身近に感じられる場所で住みたいと思うようになり、15日間のツアーでしたが、そのまま住むことに。

農園で研修していた人の知り合いからキャンピングカーを借り、ベッドだけ車内に入れて、外にキッチンとシャワーとトイレを作りました。
都会人間からいきなり、真逆の生活。寝るとき以外、外で過ごしていました(笑)

オーカス島はカナダに近いこともあって、9月頃はめちゃくちゃ寒くて。トイレもシャワーも外なので、それが辛すぎて…。
自分でも何でこんなことをしているのか疑問に思うほどに(笑)

オーカス島の人たちは、素晴らしい人ばかりでした。農園で楽しくオーガニック野菜を育てて、夜には焚き火をしてギター弾いていたり。
そんな中、私は日本のクライアントから変わらず仕事をいただいていて、締め切りに追われている中、周りを見渡せば森しかない環境。
ファンタジーのような素敵な空間なのに、どんどん「何か違う」と今の生活に疑問を持つようになりました。

もっと自分にできることがあるんじゃないか。
都会と自然、半々でどっちも共存している生活にしたいと思って、2015年の10月頃から親戚のいるベルリンへ。

迷走の旅のはじまり。

via:www.nikyniky.com

via:www.nikyniky.com(United Arrows Beauty&Youth)

2016年の春までベルリンで住みましたが、自然生活からいきなり都会に行くとストレスを感じてしまい、数ヶ月で日本に帰国。
その年の夏から秋まで、日本中を旅して、様々な人や文化に触れました。

その後、インドの小さい村で伝統アートを描いている人たちに会うためインドへ。
「アーティスト・レジデンシー(アーティストのためのアトリエ)」に2ヶ月滞在しました。ど田舎の村の生活を見ていると、すごく貧しいのに、すごく幸せそうに暮らしていて。自分の中の当たり前が覆されました。

Wi-Fiがなかったので、村の人に「Wi-Fi貸してくださいー」と訪ねて回ったのもいい思い出です(笑)
ネット環境と、パソコンと紙と画材があれば、どこでも仕事ができる。それが今の仕事の良さですね。

興味本位で、ペルーにあるアマゾンのジャングルにも行ってきました。その後、カリフォルニアやヨーロッパ諸国と、1,2ヶ月ごとに転々と移り住みました。

ひょんなことから、
高知に移住。

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

2017年12月に神戸にいたとき、10年来の友達で、「Kinema M」を立ち上げた桃(安藤桃子)が4,5年前に高知に移住していたのを思い出しました。
ちょうど桃が「“Kinema M”の隣にギャラリーをオープンするから来なよ」と誘ってくれたので、はじめて高知に行きました。

3日くらいしか滞在しなかったのですが、会う人会う人がおもしろくて。1人で「工石山」にも登りました。
「小さい町があって、豊かな自然があって、おもしろい人間がいて、ご飯がおいしい。高知、サイコーじゃん!」と思い、移住することに。

家賃を払って住むのはニューヨーク以来、約4年ぶりでした。

その場にいるからこそ、
生み出せる作品を

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

高知で個展の準備期間中、画材屋さんを訪ねても欲しい画材がありませんでした。
たまたま、「資源物収集日」に川沿いを歩いていたら、面白いモノがたくさん捨ててあって。「これを塗ったら、キャンバスになるじゃん!」と、その場所にあるものを最大限に使う楽しさを知りました。

これまで、どこにいても日本の仕事をしていて、その場所と全く関係がない作品を作っていました。

これからは、その場所にいるからこそ、生み出せる作品を作っていきたい。

高知の人は、みんな面白くて、助け合う気持ちがあります。高知で知り合った友達が木製品を作るのが得意な人で、「キャンバスに動物の絵を描くんじゃなくて、キャンバス自体を動物の形にしたいんだけど」と言ったら、カットしてくれたり。

今年できた作品は、高知という場所や人に出会わなかったらできなかった作品ばかりで、私の中では新しい体験でした。

一人で仕事をしているよりも、アートを通してそこにいる人たちと関係していきたい。

アートを通して、
世界を変えたい。

ニキ・ローレケ(Niky Roehreke)

ゴミをできるだけ出さない生活が趣味。世界中を旅した中で、特にアメリカやヨーロッパがゴミに対する取り組みが進んでいますが、日本は遅れています。

できるだけ地球に負担をかけない生活が楽しいから。それを私がアートという形で、周りの意識を変えていきたい。
大きいことだけれど、大きいことは小さいことから始まるから。毎日の積み重ねです。

あとは自分の好きなこと、楽しくやるだけです。

平和で楽しく。みんなでワイワイ、好きなことをやれるような世界にしたいです。


 インタビュー後記

お話を伺っていて、本当に自由奔放な生き方をしている人だなと感銘を受けました。
話の中で、Nikyらしいなと感じた言葉をご紹介します。

さらに自由に近づいていきたというか、それが一番好きなんだろうなと思います。
少しでも制限されてしまうと嫌というか、住むことも、「ここに住みなさい」と言われると脱出したくなります(笑)
常に自分が自分で居られるような環境を保ちたい。

これから「高知」という場所と人を通して、どんな作品を生み出していくのでしょうか。
今後の活躍に乞うご期待!

Niky Roehreke:www.nikyniky.com
Instagram:@nikyroehreke