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須崎のまちに家庭の味、
料理屋の味、
その元を作る丸共味噌醤油醸造場
須崎市の中心部・海岸から少し歩いた旧商店街の通りに佇むおもむきのある黒い大きな木造の蔵。その扉には赤丸で囲まれた「共」の文字。
地元の須崎の人たちに愛され、大正時代から約一世紀に渡り続いてきたマルキョー醤油で有名な丸共味噌醤油醸造場の蔵である。
大正時代に創業した時には何人かで丸共の屋号を共有しながら味噌醤油造りを行っていたが、戦後は大きな港に船が行き交うようになり貿易が盛んになってきた。
町全体が工業化していくなかで古くからあった味噌醤油の蔵は次第に数が減っていき、現在では丸共味噌醤油醸造場の一軒だけに。
今回は須崎で生まれ育ち上京、海外にも出て、再び高知へと戻って来た経歴を持つマルキョー醤油の四代目女将・竹中佳生子さんにお話を聞かせていただきました。
網屋(あみや)の娘に生まれ
異国への旅路へ
佳生子さんは丸共醤油醸造場の蔵のある中町に生まれたわけではなく、漁に使う網などの漁具や資材を販売する網屋の娘として出生。
当時の丸共味噌醤油醸造場は佳生子さんの祖父と親戚夫婦が中心に経営していたが、年で亡くなられてから、経営面でも品質面でも困難となり、跡継ぎもいなかったことからやむなく蔵を閉じようとしていた過去がある。
しかし、取引先や長年のお客さんのもとへ廃業について挨拶に向かった先で意外な言葉を受けた。
「どうかやめんとってくれ」
「やめられたら困る」
「マルキョーの味がうちの店の味で他ではこの味は出せんがやき」
多くのお客さんからの事業継続を望む声を受け、当時40代だった佳生子さんの父は、一度は閉じようとした丸共味噌醤油醸造場を引き継ぐことを決意。
佳生子さんはというと、網屋と醤油屋を行き来する両親を横目に、高知市内の学校へ進学し自由奔放に過ごしたという。
高校時代には外国に興味を持ちにニュージーランドへホームステイに行って、もっともっと日本以外の国について学んでみたいという気持ちがより一層強くなり、高知を出て東京の短大へと進学することとなる。
アフリカのガーナの地にて
「豊かさとは何か?」を
自問するようになる
東京で学生生活を満喫し、もっと勉強したい、と思う中で明治学院大学の国際政治経済についての研究をしている勝俣誠先生の本に大きな感銘を受け、自らも明治学院大学へ編入、勝俣ゼミへ入ることになった。
勝俣先生のゼミでは特にアフリカの地域の経済について深く研究を広げ、ゼミの校外実習というフィールドワークで大学3年生のときにガーナへと渡る。
ガーナは経済レベルではまだまだ発展途上で、お金(貨幣)のない生活も当たり前だった。
日本に比べると決して裕福とは言えないながらも、暮らしている人々はその中で幸せを見出しているのを目の当たりにし、
「豊かさってなんだろう?」と自らに問いかけるようになる。
経済的に豊かでない異国の地で生まれたこの考えが、それからずっと心の奥底にあるという。
自らの暮らしのなかに、そして須崎のこれからの町づくりにおいて、お金ではない豊かさの答えを探し続けることになる。
外国行きの資金集めで始めた
バイトで醸造と運命の出会い
ガーナでもっと学びたいと思っていたが帰国の日はやって来る。日本に戻るとすぐに再度アフリカへ渡るための資金を稼ぐためにアルバイト探しを開始。
ガーナで飲んだ「ギネスビール」の味に感銘を受けたのは本当だが、横浜の地ビール会社でアルバイトすることになったのは本当に偶然とのこと。ビールも醤油と同じく酵母菌を使って造られる醸造製品。
運命的というか自然の流れというか、自身のルーツに近い選択となった。
大学卒業後はそのままその横浜の地ビール会社へ就職する。
運命的なのは醤油と共通点のあるビール造りの仕事だけでなく、現在の四代目丸共味噌醤油醸造場の代表となり佳生子さんの夫となる栄嗣さんともこの会社で出会ってしまったことだ。
栄嗣さんも高知出身で生まれは中村、育ちは土佐清水市。ビールに関しては飲み比べをして味の違いをメモに残すほどの熱心な研究家。
佳生子さんから見た栄嗣さんは「とにかく今まで出会ったことのない魅力の持ち主で、どこが好きかと聞かれてもはっきりと言葉にできないが、とにかく夢中で目が離せない」
性格は土台をしっかりと固めてからその上に一つ一つ着実に物事を積み上げていく確実派。
勢いで突っ走ってしまう自分とは正反対の性格ゆえに「馬が合うというか安心して自由に動くことができているので、栄嗣さんにはとても感謝している」と言う。
夢中になると一直線な性格だという佳生子さん、「栄嗣さんとお付き合いを始めるとこれまで外国にばかり向いていた目が、一気に栄嗣さんに向かうようになってしまった (笑)」と照れ笑いしながら語ってくれた。
蔵を継ぐために須崎に戻り、
夫婦で力を合わせてマルキョーを支える
ビール造りに勤しむ横浜での生活を続けていると、「ビールも醤油も(酵母を発酵させて作るのは)似たもんや。ビールを作るくらいなら高知にもんてきて醤油を作ってくれ」と実家の父から何度も連絡が届くようになる。実家の蔵に戻ることを決意。
当時、何度告白しても振り向いてもらえない栄嗣さんに、最後の賭けで「実家の高知に戻ろうと思う」と打ち明けたが、あっさりフラれて高知への帰郷を決めたらしい。
若い娘が長年続いた蔵を継ぐために東京から高知へ帰って来たことで、地元の須崎では一躍期待を浴びるようになった。
高知新聞にも取り上げられ、若手のホープとして担ぎあげられる形に。
ところが、その後、栄嗣さんとは遠距離恋愛から交際スタートとなり、その1年後に佳生子さんと結婚。
栄嗣さんも高知の須崎へJターンしたのである。現在は夫婦二人で協力してマルキョーを支えている。
栄嗣さんは研究対象がビールから味噌・醤油に変わっても持ち前のひたむきさと天性の味覚でマルキョー醤油の伝統の味を覚え、更に美味しく進化させていく。
地域活動のきっかけは
「須崎を未来のこどもに誇れる町にしたい」という想い
12年前に地元に帰ってきたときに感じたのは、須崎の町が寂れていく感覚。
須崎だけでなく他の自治体でも似たような雰囲気があり、町起こしの成功事例はよく耳にするようになってきたが実際に「活動」にまで結びつける人は少なかった。
嘆きや批判の声を上げるばかりで衰退していくのを手をこまねいていて見ているだけでは、自分たちの子どもの世代が大人になったときに、今よりも更に寂れた町になってしまっている。
自分の子どもには「何もしてこなかったから、こうなった」とは言えない。
「お母さんたちは未来のために、こういうことをしてきたんだよ」と胸を張って言えるようになりたい。
地域活性化の取り組みを始めたのはちょうど子どもが生まれてすぐの頃から。
地域活動により須崎の町が元気になるのは嬉しいが、子育てをしながら店の仕事もあるなかでの地域活動への参加は大変な面もある。
「自分たちが中心となって始めた活動の集まりを欠席するわけにはいかない」「小さい子どもを祖父母に任せて家を空けることは母親失格ではないだろうか」という考えに板ばさみになっていた時期もある。
「子育て、家のこと、町のこと、やらなければいけないことで手一杯になりもう駄目だ!」というときに夫に言われた言葉がある。
「分けて考えるき難しいがよ。一緒にやってしもうたらえいやん」。そう言われハッとした。
配達中の仕事に出た先で地域活動を同時にこなしたり、地域活動の中で地域と一緒に子育てしていく、といった具合に効率良く動けるようになった。
「自分たちの子ども世代に残せるものを」と始めた地域活動のなかで移住サポーターや須崎市文化財保護審議委員などの肩書きも増えていき、『すさき女子』というかけがえのない仲間にも出会えた。
楽しいことを一緒にやれる
すさき女子という存在
須崎にはすさき女子と呼ばれるゆるいコミュニティがある。須崎が好きならみんな「すさき女子」というものだそうだ。誕生のきっかけは同年代の女性ブロガーの集まりだった。
佳生子さん自身、「醤油屋若女将のただいま子育て奮闘中」という仕事から子育てまでの日常を綴ったブログを執筆中である。
須崎という田舎町の魅力をインターネット上に発信している女性ブロガーたちがある日集まって「何か面白いことをやってみよう」と意気投合し、地元で小さなイベントを企画するようになった。
彼女たちは女性視点で「こんなことが須崎にあったらおもしろいよね」という雑談から生まれたワクワクを実現させてしまう。
自分たちが楽しいと思えることを、できることをできる人がして、協力しながら形にしていって今に繋がっている。
「楽しいと思えることを一緒にやれるパートナーがいることが、頼もしいし本当にうれしい」とよろこび溢れる笑顔で語る佳生子さん。
すさき女子が関わってきたイベントの数々
- アーティストインレジデンス須崎(すさき女子と歩く、須崎ちょこぶら60分。)
- すさき七夕かざり
- 浴衣ではんなり女子じかん
- ゆるりほろ酔い大人じかん
- すさきご贔屓市
-
とくひさワインバル
など
ここ数年で須崎のまち全体が元気になって盛り上がりを見せているのは行政の力だけでなく、「すさき女子が関わることで、民間の女性視点で楽しいと思えるイベント」が多く開催されているということも町の魅力となっているのである。
伝統の味を守りつつ
新たな挑戦も続けていきたい
醤油は日本料理、和食の味の決め手となるもの。こちらから営業に出向いて「使ってほしい」とお願いするということは、料理屋さんに長年の「その店の味を変えてくれ」というのと同じ意味合いとなる。なかなか難しい話だ。
だからこそ「新規開拓の営業活動よりも、探し求めてマルキョーに来てくれるお客さんを大切にしていきたい」と佳生子さんは言う。
マルキョーの今があるのは一度は閉じると決めた蔵を再開するきっかけとなったお客さんたちからの「マルキョーがなくなったら長年親しんだ味がなくなってしまう、やめないで欲しい」というあの言葉があったからこそ。
醤油は温度や湿度、季節の変化で同じ作り方をしても毎回同じ味にはなってくれない。
そのため、味や香りの最終調整を毎回人の手で行っている。
製品の味見は従業員とともに女将である佳生子さん自身も一緒に行っていると言う。マルキョーの味は佳生子さんの体にしっかりと刻み込まれているのだ。
一つ目の挑戦は、味噌。
今年から県内のスーパーや小売店が取り扱いできる形で味噌の販売を開始する準備が進んでいる。味噌の「噌」という字はわちゃわちゃと混ぜるという意味合いを持つ。
だから色んな味の味噌どうしを混ぜて使ってみても全然かまわないし、美味しい組み合わせが見つかることもある。
混ざり溶け合って新しい味となり食べる人を楽しませてくれる。現在の須崎の姿はまさに味噌のようだ。
UターンやIターンの個性豊かな移住者が増え、味噌のように混ざり合うことで須崎という町に味わい深い魅力を生み出している。
いつかの夢は、ビール
もともとはビール製造会社で働いていた佳生子さんと栄嗣さん。醤油もビールも発酵・醸造という製造方法の共通点を持っている。
一度は離れたビール造り。今すぐというわけではないが、佳生子さんの夢は「いつか自分たちのビールをマルキョーから出すことだ」と目を輝かせながら語ってくれた。
「マルキョーが残ってこれたのは、お客さんがその味を残して欲しいと強く望んでくれたから。その願いに応えるためにも、自分たちが丸共を背負いこれからも頑張らないと」
地元の人は口を揃えて「マルキョーの味が家庭の味やき」と言ってくれる。
進学や就職でこどもが都会に行ってもおふくろの味、故郷の味としてお子さんへと送る人も多いという。
丸共の「共」という字は、長いあいだ地元に愛され地域と共(とも)に続いてきた歴史を持つマルキョーの製品にとてもしっくりとくる。
「豊かさとは何か?」
かつて遠い異国の地ガーナでの自らへ問いかけた言葉。
大量生産大量消費が支える現代の日本経済。
それとは対照的に田舎ならではの生産者と消費者のお互いが顔や想いの見える関係で、女性ならではの子育てや家庭の中からの視点で、ヒト・モノ・コトを上手に循環してそこに暮らす人々が日常をより心豊かに過ごせる時間と場所の創造を目指して、今も日々奮闘しているマルキョー醤油の女将・竹中佳生子さんでした。
(有)丸共 味噌醤油醸造場
所在地: 〒785-0008 高知県須崎市中町1丁目2−21
電話: 0889-42-0129
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