転機となったのは、龍馬像の造形を手掛けてから。誰もが知る某有名テーマパークやゲームキャラクター、店舗・施設などの立体製作も多数手掛けています。造形家を目指すきっかけから今に至るまでの経緯を伺いました。
立体造形に魅せられた。
絵を描くことも好きたっだけれど、自然と立体に目が向いていきました。
絵より立体の方が自分の思っているものをダイレクトに表現できるんです。 絵は得意だけれど立体は苦手な人もいれば、その逆のタイプもいます。両方できる人もいるけれど、僕は立体の方が得意でした。
立体作品として認められてきたのは中学生くらいからです。大学のときには彫刻を専攻していて、 そこから本格的に立体作品をつくるようになりました。粘土を使って大きな立体作品をつくる岐阜県の「みずなみ陶土フェスタ」にグループで参加してグランプリをいただいたこともありました。
卒業後は全く食えなかった。
お金に結びつかせるにはどうすればいいか?を考えるのが難しかったですね。削る技術や、FRP(繊維強化プラスチック)の技術は造形会社でのバイトや、個人で仕事を受ける過程実践で学んでいきました。ほぼ独学のような形でした。
独立して個人でやるということは難しく、造形の仕事だけでは全然食えませんでした。大学卒業時から20代半ばまではデザイン関係やWEBなど造形とは違う仕事もやりました。
半年間だけデザイン事務所にいたこともあるんですが、その時デザインしたキャラクターが大賞を取ってしまって。で、その後調子に乗っていくつかキャラクター公募に送ったこともあったんですが全然ダメで(笑)。やっぱり自分には立体造形しかないなと。
20代後半は仕事を造形に絞り込んだこともあり、一番苦しかった。まともに造形だけで食べていけるようになったのは、30歳過ぎてからかな。
転機は、龍馬像。
改めて龍馬の亡くなった年齢になって、自分の人生を振り返ったんです。
「龍馬が生きていない33歳からの人生をどうやって生きていこうか」と改めて考えました。
そして、スタートラインに立つために「龍馬はあれだけ偉大なことを成し遂げたのに、自分は何もやれてない。自分に何ができる?そうだ、龍馬を作ろう!」と思い立ちました。
「龍馬を作りたい」と自作の龍馬マスクを携えて営業に回ったんです。主に高知市、高知県庁、高知市役所、龍馬記念館など龍馬関係を回りました。龍馬の顔だけでも立体として現物があるとどこも反応は良かったんですが、なかなか仕事には結びつかなくて。その中で一番反応が良かったのが高知市。
数回った中でようやく「等身大の龍馬像を作ってくれ」と依頼を受け、城西館の裏にある「龍馬の生まれた町記念館」の中庭に龍馬を含め3体の像を作りました。
2010年に作ったのが龍馬、翌年に近藤長次郎。2014年に乙女を作りました。それぞれ別のところがお金を出してくれたんですけれど、龍馬が高知市の事業で、後の2体はライオンズクラブの寄贈という形で作らせていただきました。
造形物のストーリーを
理解した上で作る。
理解した上で作る。
造形を作る上では、本を読んだり、「その人物がどういう人間であったか?」というのを調べます。ただ姿形を似せて作るのではなくて、内面もちゃんと作るのが仕事だと思っています。物語やどういうキャラクターかを理解した上で作った方が絶対に良いものができる。 表面上だけ綺麗に作るのは好きじゃないですね。 そこが普通の造形屋さんとの違いかなと思います。そこは絶対に譲れないところですね。
2016年は金額的にもサイズ的にも大きな仕事が入っていて、2メーターから5メーターが数台、9メーターが2台。ちょっと個人のレベルではまかないきれない仕事量になっています(笑)
9メーターは某有名テーマパークからの依頼で、その原型リーダーを任されて模型から作りました。
地方から、造形文化を発信していきたい。
この前、正木秀尚(漫画家)さんと展覧会をやったんです。あれも漫画と造形のコラボレーションで、高知の文化として発信してきたいという想いから始まったプロジェクトでした。 高知には海洋堂のミュージアムもあるので、独特の造形文化がある気がしていて。新しい造形文化として、高知ならではのものを全国にアピールできるんじゃないかなと思っています。
“地方発”を意識して地場の素材を用いるなど、高知色を出していきたいと考えています。
インタビュー後記
幼少の頃から造形に惹かれていましたが、小学校の頃は漫画家になることが夢だったそう。今は、「自分の作品を作って売るというよりは、人の想いを自分なりに形にして届けることに重きを置いている」と話されていました。仕事が落ち着いて余裕ができれば、作家活動も行っていく予定だそうで、今後の活躍が楽しみです。
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