高知の老舗旅館「土佐御苑」の長男として生まれ、長年観光業に携わってきた横山公大さん。現在は「株式会社オルトル」を立ち上げ、一つの枠に留まらず、幅広く活動されています。
今では高知で認知され、春の風物詩になっている「土佐のおきゃく」の仕掛け人の一人で、実行委員長を務めています。お話を伺うと、高知の観光に対する、アツいアツい情熱が溢れていました。
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冬でも半袖半ズボンの
ヤンチャ小僧
老舗旅館「土佐御苑」の長男として生まれました。幼少期から好奇心旺盛で、冬でも半袖半ズボンを履いて登校するような活発な少年でした(笑)
旅館で生まれて育ってきたので、周りから「坊ちゃん」とよく言われてました。ただ、それがイヤで。家業が忙しく、家も客室の隅っこで住んでいました。
母は厳しく流行っていたゲームもさせてもらえず、高知城の山を駆けずり回っていました。なので、今でも高知城は隅々まで知ってます(笑)
小学校4年生のときに、親父が単身で大阪に鍼灸師の資格を取りに家を出て行ったので、4人兄弟を母が女手一つで育ててくれて。
超絶忙しかったと思うのですが、日曜の度に弁当作って山登りに連れて行ってくれていたことが印象深く覚えています。
高校中退後、
板前として修行を積む
中学2年のときに両親が離婚し、姓が変わりました。当時、思春期で名字が変わるというのが、ものすごく苦痛で。そこから母親への反発がものすごく強くなりました。
小津高校へ進学しましたが、悪いことを続けてしまい退学。
何もせずにいたら、同じく退学になっていた友達が一足先に、土佐山田で板前さんとして働いていました。「お前、プラプラしゆうがやったら働けや。お店の社長に言うちゃうき」と言ってもらって。17歳から2年間、板前修行。
人の出会いって要所要所で大事で、当時の恩師が「養老乃瀧 土佐山田店」の社長と女将さん。「中卒ではいかん。せめて高卒は出ときなさい」とすごく諭されて。
「土佐御苑」に帰り、商業の定時制に通いながら板前の修行をしました。
卒業間近にニュージーランドに旅館関係の旅行に行く機会がありました。「あぁ、多分ここで住むんや」と直感のような、自分が住んでいるイメージがありありと浮かんできました。前世にいたんじゃないかていうくらい衝撃を受けました。
衝撃的な出逢いから
ニュージーランドへ移住
帰国してからというもの、なんとかニュージーランドで住む方法はないだろうかと考えました。当時、世界中を席巻する日本食ブーム。板前さんが少なく、タイミングよくオークランドでも有数のホテルに入りました。そこのジャパニーズレストランに就職が決まり、サードシェフとして働きました。
週の半分は朝5時からサーフィンして、9時からゴルフ、16時くらいから仕事。というような優雅な暮らしをしていました(笑)
2年ほど経ったころ、母親の病気が発覚し、帰国する決断をしました。
「土佐御苑」は祖母が建てた旅館で、母に代を譲る話がありました。
母は「旦那と一緒に鍼灸師の仕事をする」と祖母に言ったんです。
すると祖母は「継がないのであれば、旅館を売る」という話になり、このままじゃ人手に渡ってしまう。母は父を説得しましたが、父は診療所をやると言って聞かず。
結果的に両親は離婚し、母が旅館を継ぐことになりました。
その経緯を知っていたので、ニュージーランドで永住権をとって住もうとしていましたが、母から「あんたしかおらんやろ」と言われたときに、それが頭をよぎって。
「俺がやらんかったら、生まれ育った旅館がだれかの手に行くんかな」と思ったら戻ってこなかんと思い、26歳の時に帰って来ました。
社員からの猛烈な反発
26歳くらいということは、同年代が中堅になる頃。それがやっと主任で頑張っているのに、いきなり「係長」という役職に就けられてしまって。
そこからが反感の始まり。同年代の社員さんが、挨拶してもフル無視。
話しかけても存在すら認識してもらえず、密かに憤りを感じていました。
でもその時に「誰よりも働こう」と決めて。旅館は24時間、365日営業なので、誰かしら24時間働いています。
僕は朝5時に出勤して24時までラウンジで働き、帰宅は25時。また翌朝5時から出勤と維持になって働き続けていたら、一人ずつ挨拶し始めてくれて。
反感の中心になっている人は最後まで、フル無視でしたけどね(笑)
そうやって、少しずつ社員さんの中に入っていきました。
日本一の若旦那を目指す
日々奮闘する中、旅館組合の青年部で地域活動や観光の仕事をやるようになり、全国に目を向けるようになってきました。
旅館の全国大会に行く機会があり、登壇されている先輩を見た時に心を打たれてしまって。
「井の中の蛙」というのをその時に知ったのですが、旅館の先輩方が地域のことも全国のことも、旅館のこともバリバリこなしているのを見て、「すっごいねゃ!」と強い憧れを持つようになりました。
そこから、「いつしか“土佐御苑”を日本一の旅館にしたい」という想いが湧いてきました。ただ「何を持って日本一なのか?」自分でも答えを見つけれずにいました。
その時にある先輩から、「日本一の山は、富士山やけど、二番は分からんやろ? 圧倒的な存在がナンバーワンぞ」と言われて腑に落ち、日本一を目指して取り組み始めました。
信念を持ってやり遂げること
意識の共有やタイトルを目指すために「朝礼コンテストに出るぞ」と社内で言ったとき、超反対運動が起こりました。
朝礼を導入することで良いことはたくさんあるはずなのに、入社したての社員さんから「読みたくないものを読まされて出たくもないセミナーに出て、したくもない朝礼をさせられました」と労働基準局に訴えられたんです。
すぐ呼び出しが来て、「匿名ですけど御社の社員さんから、こんな声が出てます」っていうのを言われて(笑) おいおいと(笑)
悔しくて、訴えに訴えましたが声届かず。結局2人辞めてしまったけれど、残ったメンバーは大切さを少しずつ分かってくれて。高知の「朝礼コンテスト」初出場で優勝。優勝後に注目を浴びて、本人たちもやる気が湧いてきて、2年連続で優勝。
社員や社長から反対されることも多々ありましたが、信念を持ってやり遂げることが大事だと感じました。
その後も、高知の「朝食ランキンング」1位や全国でも3位を取り、ただ仕事をするのではなく、とにかくタイトルを目指しました。
目指すことで、あきらかに社員さんの仕事に対する姿勢や、仕事に対する「誇り」が出ててきました。
2011年には、史上最年少35歳で全国の旅館の代表になりました。
そして旅館の日本一を目指せる、社員さんが光輝く舞台「旅館甲子園」を作り、日本一を目指すことで飛躍的に社員の意識が高まりました。
好奇心が膨れ上がって…
タイトルを取るうちに、旅館のためだけでなく高知のために、後輩のために人脈をつなげていきたい。と感じるようになりました。
後継者としての自負もあったけど、創業もしたい!もっとチャレンジしたい!
40歳を過ぎて、「本当にこのままでえいかねゃ」と思うように。飲食も旅館も講演も、商品開発もしたい。新しく立ち上げるなら、いろんなことにチャレンジできる会社にしようと。
社長との確執もありました。会社を思う気持ちは同じでも、方向性が違う。
母親としてはすごく好きで仲良しだけど、会社の中では犬猿の仲でした。
社長に対して傲慢な態度を取っていて、謙虚さがありませんでした。
退職する前年に啖呵切ったことがあって、「もっと俺を自由に働かせてくれ! 次の年度に旅館を譲ってくれ、全力で旅館を盛り上げて行くき! 代を譲らんのであれば、俺は辞める。弟に譲るか、二人とも退任するか。決断をしてほしい」と。僕が40歳を超えたときでした。
その一週間後、役員会議を開いた時に、先代の祖母の仏壇前で、「弟の光寿を後継にする。公大、あんたは本当にようやってきてくれた。いろんなことを生み出してくれたことも分かっちゅう。あんたの意欲は旅館に止まらんやろ。もっと外に出ていろんなことにチャレンジしなさい」と決断してくれて、心がすごく晴れて。憑き物が落ちた感覚でした。
弟がいたからこそできたことでした。
高知のためになる事業を
僕としては後継者としての経営、兄弟経営を土佐御苑でものすごく学ばせてもらいました。
2016年に「土佐御苑」を退職後し、「株式会社オルトル」を立ち上げ、創業の苦しみと楽しみを同時に経験させてもらっています。
創業して約2年ですが、アルバイトさんを合わせると約50人の所帯に。最初はカフェを立ち上げ、講演活動や経営アドバイザー、発毛サロン、牡蠣小屋やメロンパン屋さんなど、利他につながる仕事は何でもやっています。
立ち上げる店舗は、外れに活気を生み出すために、あえて辺鄙な場所に作っています。
このモデルが構築できたら、様々な港に人の流れを作ることができるんじゃないかと考えています。
高知の観光業を
盛り上げていきたい
「土佐のおきゃく」の実行委員長を務めているのも、大きな経験の一つです。
高知には「よさこい」という夏のビッグイベントがありますが、春には何もありませんでした。そこへ「土佐のおきゃく」を立ち上げ、今では経済効果8億円を生むイベントに成長しました。無から生み出したイベントで創業から携わっていたので、やりがいがありました。
いつも、地域のためになることを念頭においています。
これからも観光のプロフェッショナルとして高知の観光を盛り上げて行きたい。
観光はいろんな人がチャレンジできる、大きな産業の一つです。大学生や飲食を営む方、漁師さんや農家さん、観光業に携わっていない人も一緒に取り組んでいく必要があります。
観光業は現状、宿泊業界や旅行会社がメインなので、もっといろんな人のアイデアを入れなければいけないと感じています。
物事を決めるときの基準は、稲盛和夫さんの「動機善なりや、私心なかりしか」。
新しい事業始めようとするとき、動機は善なのか、そこに私心はないのかを自分自身に厳しく問い、決断するようにしています。
これからも社名オルトル(オルトルイズム:利他主義)の精神で、謙虚に、そして大胆に高知を活気づけていきます!
インタビュー後記
横山公大さんは30歳の時に、高知の講演会で大嶋啓介さんに出会い、衝撃を受けたそうです。
今では心の師匠であり兄貴分、親友でもある、今でも一番尊敬する人。
彼との出会いが公大さんの人生を大きく揺さぶってくれたと言います。その話の中で、今も大事にしている言葉に自分も感銘を受けたので、ご紹介します。
中国の古い諺で「二師三兄五友五弟(にしさんけいごゆうごてい)」という言葉があるのですが、人生は「二師三兄五友五弟」を探す旅である。強烈な師匠を二人、三人の兄貴分、怒ってくれて、且つ自分を引っ張り上げてくれる兄貴分を見つけなさい。五人の友、相談もできてバカもできる大親友。そして、自分のやりたいことや築き上げた物を伝えていく弟分を持つ。