【 Ⅱ .文献からたどる、「魚の棚」の記録】
寛文元年(1661年)、山内土佐藩の三代目藩主・山内豊文の時代に開設されました。
高知県各地の地名の由来を記載している『高知県の地名(1983・下中邦彦)』には、以下の通り「魚の棚商店街」のことが書かれています。
“種崎町(たねざきまち)
…(魚の棚商店街は)寛文年間に開設され、夏には両側の屋根から日差避けの日覆を差し掛ける許しを(土佐藩から)得ていた。”
_P345中『高知県の地名(1983・下中邦彦)』より_
「_許可が、必要なの?」
さらに現地で海産物店を営む方にお話を伺ってみると、なぜ許可を取る必要があったか伺えます。
「もともと町を覆い隠すテントはね、したらイカンと言うことになっていたの」
「それが、おそらく町の人が頼んだんろうね。”お魚が日に焼けて傷んでしまう”からということでお殿様に進言して、お殿様が”それなら許そうか”と認めてもらったんだと思うのよ」
町の景観維持や、火事対策の理由があったと推測されます。
しかし、商品が傷んでは商売にならないということで、当時「魚の棚商店街」に住まう全ての魚商人たちが、請願してようやく日除けテントの設置を認めてもらったという背景があったのでした。

特徴的な、日差除けのテント屋根。ブラインド式になっている。
この現存する魚の棚商店街のほか、高知城から西の「(現)上町一丁目」「南はりまや町」も加えて、
合計3つの「魚の棚」が、高知市にあったとされています。
「上町魚棚」
…高知城下町で水産物の小売りが許された場所で、上町では東部中央の本町通からその南の水通町通りを突き抜け通町通りに至る南北筋の路地にあった。(中略)
(上町)魚棚がこの位置に定まったのは延亭3年(1746)の城下の大火後のことで城下街の防火線とするために_”
_P340中『同上』より_
“弘岡町(の魚棚)
…山内入国後の城下街づくりの折、吾川郡弘岡の住民を移して成立したため、この名前が付けられた。
万治2年(1659)、町の西部に、のちの八百屋町北部に当たる地にあった魚棚を移した。
_P342下『同上』より_”
しかし江戸時代を過ぎ明治時代に入った頃には、災害や街の改修事業によって、このいわゆる「種崎町の魚の棚」だけが残ったと言われています。
そうして、現在に至るまでこの商店街が残ってきたというわけです。
【ここから「魚の棚商店街」特集、はじまります】
この回は導入として、歴史的なアプローチで書き記しました。
少なくとも、文献にわずかにでも残り、残り続けてきたことだけは伝わるかと思います。
さぁここからは、今なおこの商店街に住まい、日常を送る人々に焦点を当ててお送りします。
どうぞ、お付合いくださいますようお願い申しあげます。
【参考書籍】
・わがまち百景:21世紀に伝えたい高知市の風景
・高知県の地名
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