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「高知の魅力は人。県民が一体となって楽しめる番組を」まひろ / 内田量子

 東京で女優として活躍後にUターンし、高知のテレビ番組「まひゴろ!!」や「まひろのま」をプロデュースするまひろ(内田量子)さん。番組を作る背景には表現者として、「高知の人の魅力を伝えたい」という意気込みがありました。取材を通して、今のハツラツとしたまひろさんからは想像もできないような話が飛び出てきました。
 

子どもの頃は、
極度の人見知りだった。

まひろ / 内田量子子どもの頃は、人見知りが激しく、すごく大人しい子でした。幼稚園児の頃は同い年の従兄弟といつも一緒にいたので、男の子グループとチャンバラばかりしていて、女の子と話す方が照れていました(笑)
男の子とばかり遊んでいるから、自分のことも男の子だと思っていたくらいです(笑)
 
従兄弟とは小学校に上がって別々になってしまいました。そこから人と話せず、授業中も先生から「内田さん」と当てられてると、立った瞬間にお漏らししてしまうほど対人恐怖症でした。
 
考え過ぎる性分だったので、精神的なダメージで胃に穴が開きかけたこともあります。
そういう弱さもイヤで、自分を変えたいと思っていました。人としゃべれない時期は、「何のために生まれてきたんだろう?」とずっと考えていましたね。
 
 
 

自分を変えたい一心で
女優を志す。

まひろ / 内田量子小学校3年のときに、映画「E.T」を見に行ったことがきっかけで、女優を目指すようになりました。
E.Tと人間との関係性やSF感も含めて、すごく感動して3回も見に行って「スクリーンの向こう側に私も行きたい」という思いが湧いてきました。
 
そこから「女優」を意識し始めて、大人のドラマをこっそり見たり、漫画の「ガラスの仮面」を読んだり。けれど、恥ずかしさが先に立ってしまい、中高生になっても演劇部に入る勇気が出ませんでした。
 
高校卒業後は上京しようと考えていましたが、親に学校に入れと言われて、大阪のモード学園に入学。就職活動の時期に差し掛かったとき、「幼い頃から思っていた女優という道に挑戦してみよう」と思うようになりました。
 
 

女優を目指して東京へ。

何の当てもなかったけれど、「とりあえず東京に行こう。やれるかどうかじゃなく、やってみよう!」と思いました。覚悟を決めたら行動に移しちゃうタイプで、親にも土下座し、学校をすぐに辞めました。親は猛反対だったけど、反対されても勘当されても行くことを決めていました。
 
東京に行く直前、成人式で高知に帰省。そのとき友達に「私、女優になるために東京に行くわ」と言ったんです。そしたら周りから「無理だ」「無理だ」と言われるんです。けれど、無理だと言われるほどに「やったろうやないか!」という気持ちになって(笑)
 
親にも勘当されて上京して、現金も3万円しかありませんでした。たまたま高知出身のバラエティのプロデューサーと知り合い、「60万円を貸してください。3ヶ月で返しますから!」と頭を下げました。そしたら、「わかった。同じ高知出身やし、頑張ってみいや」と貸してくださりました。同郷のよしみで無茶振りをきいてくれたプロデューサーさんには今でも感謝しています。
 
そのお金を元手に、安いアパートを借りて、朝から晩まで新宿でウェイトレスで働きました。毎月20万円を返し、店ではまかないを食べながら、家ではキャベツを食べる生活を続けていました。
 

女優としての道が開ける。

まひろ / 内田量子借金を返し終え、そこから標準語を覚えたいと思い、話す仕事として水商売を始めました。
そして23歳の時、標準語も身についてきたので昼のアルバイトを探していて、スカウトされました。

いきさつは、近所でオープニングスタッフとして店頭アルバイトを募集していて、面接を受けに行くとオーナーさんから「お前なにもんな? お前、なんか違うな」と言われて。
 
まだ女優をやってもいないのに「女優ですけど?」と答えると、「実は俺、会社内に芸能プロダクションを立ち上げたばっかりだから来る?」って誘われて(笑) そこから女優業が始まりました。
 
最初に受けた仕事は、カネボウ化粧品のCMでした。その後も企業CMの仕事をさせてもらう機会が多かったように思います。
自分を曲げない頑固なところがあるので、舞台の仕事は持って来てくれても、「舞台は何を見ても面白いと思わないからイヤです」と断っていました。
 
事務所の社長が「本当にお前は頑固な子だな」と藤山直美さんの舞台を見に、名古屋まで連れて行ってくれました。そのときに「この人、バケモノみたいにすごい女優さんやな!」と衝撃を受けました。
「この人の舞台やったら出てもかまんで」とまた上から目線で(笑)
 
 

舞台の世界にのめり込む。

最初はコネで直美さんの舞台に入れてもらいました。稽古場で「直美さんの付き人が足りない」という話を聞いて、直美さんに「私でどうですか!2年間どうですか!」と直談判。
結果、気に入っていただけて、2年間付き人をしながら舞台の世界にのめり込んでいきました。
 
事務所を転々としながら女優業をしていて、34歳のときに結婚。家庭を持ったからか、身近に信頼できる人ができたからか、今まで度胸がなくてできなかった自分の個性を芝居の中に出すようになりました。
 
そのおかげか、監督やプロデューサーに面白がってもらえるようになり、やっと34歳以降から女優として花開いてきました。
 

高知を盛り上げるために、本気で活動している友達に触発される。

まひろ / 内田量子40歳のときに離婚して1年経ったとき、道を歩いていたら風景が一瞬モノクロになったんです。
 
自分の直感を信じて生きていくタイプなので、しばらく東京を出ようと思って。芝居の勉強に海外に行くか、高知に帰るか検討していた頃、映画「あらうんど四万十」の撮影で何度か高知に帰ってきていました。
 
「あらうんど四万十」の撮影現場に、なぜか同級生で友達の横山公大も来ていて「高知をどうやって盛り上げていけばえいろう?」と頭抱えていた時期でした。
 
彼に「おまん、東京にずっとおったろ、外から見て高知の良さってなんぞ?」と聞かれたんです。
そのときに、私は「人やろ。高知の良さは人やと思うで」と言うと、「そうか、人かぁ」と真剣に考えていました。
 
そんな友達を見ていて、「あぁ、自分達で地元を盛り上げて行くことを本気でやってるんだな」という出来事が頭に残っていました。18歳の時から高知を出ているので、「家族との時間もほしい」という思いもあって高知に帰ることにしました。

 

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